一筆法話81
『為善』(ぜんをなす)
皆さんは「やってます光線」というのをご存知だろうか。私の知っている人
に数人、「やってます光線」が常に出ている人がいる。よく働き、周囲に気を
配り、心優しく面倒見がいい人である。会社では上司の覚えもめでたく、地域
では人の爲に尽くす好感のもてる人である。しかし、何でもない仕事などで同
じ時間を過ごしたりするとその人の人格が見えてきたりする。よく気が利くと
思っていたら、人のいない所では手抜きばかりで、人のいるところでないと十
分に仕事の能率が上がらない。周りに人がいるときに限って優しい言葉をかけ
小利口なことを言う。そして些細な仕事でもさもやっていますとばかり大げさ
に振る舞い、勢いよく戸を開けせかせかと歩き回り、人前を不必要に何度も往
復する。そして前から後ろから「やってます光線」を鋭く周囲に放ち、「よく
働きますね」「感心ですね」「大変ですね」「ご苦労さま」などという言葉を
待っている。
江戸時代の頃より広く読まれてきた『菜根譚(さいこんたん)』(中国・明
の時代の処世哲学書)の中に、
「爲善而急人知、善處即是悪根」
「善を爲(な)して人の知らんことを急にするは、善処(ぜんしょ)もすなわ
ち是れ悪根(あっこん)なり。」
という一文がある。善いことをしても、それを周りの人や特定の利害関係のあ
る人に認めてもらうことを目的にする行いは、善い行いをしても、かえってそ
れが悪い心を起こす原因となるという意味である。これは名誉欲の強い人に多
い。他人に認められるために行う善いことは善いことにならない。人に知られ
たいという善行が強ければまた知られたら困る悪行も同じように強くなる。
禅の道場では陰徳(いんとく)を積むということをやかましく言う。徳とい
うのは、品性とか人格などの人間の精神的なものを言う言葉だが、人に知られ
るようにわざとらしく働く行為は品性が良くない。ましてや、それだけしか頭
にない人とお付き合いすることはご免被りたい。岐阜の瑞龍僧堂の閑栖(かん
せい=隠居)老師は、言葉じりに「‥‥ぞな」と言われていたが、
「昔の雲水(修行僧)は、人が寝ているときにこっそりと東司(とうす=便所)
掃除を行い、他人の下駄の鼻緒などを修理しておいたぞな。誰がやったか判ら
んように、朝起きても知らんぷりだぞな。そういうことを競ってやったが、誰
も自分がやったという顔はしなかったぞな。今は、私がやっておきましたなど
とすすんで言うが、昔から『陰徳は耳鳴りの如し』と言うてな、そういうこと
は自分だけが知っておればいいぞな」
と雲水に必ず言い聞かせておられた。
こっそり行う徳行を陰徳と言い、世間によく知られる徳行を陽徳という。ど
ちらも人格の問題であり、心の問題であるから、執着しなければよいのだが、
自分をごまかすことはできない。自分をごまかし続けているとそれが解らなく
なる人がいる。御気の毒なことだ。古書にも「陰徳あれば必ず陽報あり」と書
いてあるが、陽報(良い報い)が目的となると「やってます光線」が出てくる。
「やってます光線」はキラキラと輝き眩しいから相手をして見ていられなくす
るばかりか、気分を悪くさせる。忌憚なく言えば、「嫌らしい人」ということ
だ。