『『似秋月』(しゅうげつににたり)』


十月は神無月である。日本中の八百万の神さまが島根県の
出雲大社へ出かけてしまい、各地のお社が留守だというこ
とで、神無月という名前が付いたらしい。出雲の国では逆
に十月のことを神在月という。旧暦の十月十七日に神在祭
を出雲大社では行う。うそかまことか神様だらけになって
いる旧暦十月の出雲の国ではうっかりおならも出来ないと
聞いたことがる。
ある本で、カミ(神)はカガミ(鏡)がつまって出来た言
葉であると読んだことがある。つまり、鏡はきれいに磨い
ていないと素直にありのままの姿を写しだすことは出来な
い。鏡が汚れていれば、どんなに着飾った人が前に立って
も汚れてしか写らない。神さまもやはりきれいな素直な心
で向き合わないと歪んだ姿を写しだす。だから、自分自身
の心を正すためにご神体は鏡を置いてあるのだそうだ。大
変なこじつけではあるが、一理あるとも言える。 神という
字は示(しめすへん)と申(しん)とから成立っている。
示(しめすへん)という字は神さまの台座にいけにえを捧
げて血が滴っている様子を表し、申(しん)はいなびかり
が走っているようすを表し、カミナリの意味と音を表して
いる。だから神という字の本当の意味は、人間わざを越え
たはたらきのことをいう。ついでに言えば示(しめすへん)
のある字はほとんどが宗教儀式に関係のある字である。
私は中学生の頃ませた子供で、当時の愛読書は「葉隠」で
あった。その中で「武士道とは死ぬことと見つけたり」と
いう有名な言葉が出てくるが、「葉隠」の書かれた時代は
武士道が衰退して、当時の武士がぐずぐずして死にきれな
いことを戒めてのものである。そして「写し紅粉を懐中に
したるがよし。」と出てくる。武士というものは普段から
懐に化粧道具を携えて、顔を直す心構えが必要であると説
いてある。外見などはどうでもよいとは言ってない。最近
の男性は言われなくてもお化粧をしている。男子トイレな
どで鏡を覗いては自分の顔に見とれて悦に入っている人を
よく見かけるが、見ていて可笑しい。もし現代に「葉隠」
の作者ー山本常朝が生きていればきっと「心を写しだす顔
はごまかさないがいい、鏡など見て化けてはならぬ」と言
うに違いない。
鏡といえば古来、月は鏡に例えられてきた。
「吾心似秋月 碧潭清皎潔」
「吾が心、秋月に似たり
     碧潭(へきたん)清うして皎潔(こうけつ)」
私の心は秋の名月のようにすっきりと、また青々とした深
い水のようにどこまでも透明で汚れがない。と、中国の詩
集「寒山詩」にある。神仏に手を合わせるときは、いろい
ろと欲張って叶わぬ願いを頼むよりも、私の心はこれでい
いのか、秋の月のようにすっきりしているのかと自問自答
する姿勢が大事ではないか。僅かな賽銭を投げ入れて厚か
ましいお願いをするよりも、神仏に向かって素直な心であ
りたい。

一筆法話

コピーしてお読み下さい。
01  君看よ
02  好事
03  独座
04  皆真なり
05  共に行く
06  好日
07  不食
08  蒼龍の窟
09  家珍
10  風涼し
11  弁じ難し
12  滋味無し
13  月在手
14  無南北
15  短法身
16  這漢
17  同事
18  桃核
19  足別離
20  癡僧
21  元不識
22  不遠
23  不諾
24  也風流
25  無所住
26  阿家牽
27  忘却
28  是非人1
29  是非人2
30  竹一竿
31 斑斑色
32 可憐
33 眞人
34 無慚色
35 不相知
36 三子寒
37 似秋月
38 思鱸客
39 明月夜
40 進一歩
41 千年翠
42 喫茶去
43 殺仏
44 如在
45 声吁吁
46 山高
47 不貪
48 養形
49 夜来雁
50 世上人
51 上樓
52 無暖気
53 嫌揀擇
54 罵李
55 怪力乱神
56 童子不知
57 到遼西
58 火自涼
59 不覚臭
60 無咎
61 為父隠
62 な し
63 な し
64 な し
65 な し


説教はイヤだ!体験がいい!坐禅を組む。

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道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp