『是非人一』(ぜひのひと一)


私は宗教をやっている人間は苦手である。自分が一番正し
いと思う心が、どうも胡散臭くて、独善的で、他を受け入
れなくて、いやらしくて嫌いである。宗教をやっていれば
素晴らしいことをやっているかのように思っている人々が
多いのにも辟易させられる。
信仰とは本来一人一人が安心してこの世を暮らすことを目
的に、存在するものだと思う。ところが、錦の御旗を振り
かざし、おれは良いがお前は悪い、おれは正しい宗教だが、
お前の宗教は間違っていると、厚かましくも人に自分の信
ずる宗教の能書きを口角泡飛ばして述べ、それが私利私欲
の願いを臆面もなくさらけ出していることに気付いていな
い。そして、
「良いことだらけのけっこうけだらけ論」
がまかり通っていく。同じ人間の営みにそうそう違いはな
く、楽もあれば苦もあるはずだがなあ、と考えてしまう。
しかし、言っときますがそりゃあ、私は坊さんをしてます。
でも自分が一番正しいとは決して思っておりません。私は
自分に欠陥があったからこそ止むに止まれず、その上別の
道を考えもつかなかったので、仕方なしに坊さんの道を歩
んだけれども、私が普通だったら、決して坊さんの道なん
か選びませんよと、言いたい。
宗教とは本来自分に何か不安があったり、または悩みを持
て余してその門をくぐるのだと思う。良いことを言って、
尊敬してもらい、仲間を増やしたいがために出家したので
はない。
そして宗教的な生活というのはもっと素朴な、日常の生活
に根差しているはずである。例えば、ご飯を食べるときに、
「いただきます」と言う。その「いただきます」は誰に言う
のだろうか。自分の信ずる教祖さまだろうか、又は親に、
ご先祖さまに感謝するのだろうか。
「いただきます」
と言う一言は
「あなたがたのお命をいただきます。あなたがた大根や人
参や魚や牛、豚のお命をいただくことによって、私のこの
命を支えています。すみませんねえ。ありがとうございま
す。」
という気持ちが込められているのが真実である。他の生き
物を殺さずには生きていけない私たちがどうして宗教の名
の下に傲慢になることができるだろうか。知れば知るほど
に畏れおののき、知らずしらず謙虚になるものである。
『来説是非者 更是是非人』 無門関(十八則)
『来たって是非を説とく者は 更ちこれ是非ぜひの人)
という言葉を見て欲しい。大根がカボチャに向かってどう
してお前はカボチャなのだと、詰め寄っても大根の恥にな
るだけである。他人の「是非」に、こだわっている人は、
その人自身が「是非」に、がんじがらめに縛られている、
不自由な人だということにほかならない。
少なくとも私自身は不自由な人間だったから修行を通して、
ものごとが平等に見られる人間になるようにと、修正させ
られてきた。そして、もっと謙虚になって自分自身が人間
としてこの世に生かされている事実を想い、畏れを知らね
ばならないと思う。大根だってカボチャや他の野菜が在る
お陰で、大根の魅力があるのだから。

一筆法話

コピーしてお読み下さい。
01  君看よ
02  好事
03  独座
04  皆真なり
05  共に行く
06  好日
07  不食
08  蒼龍の窟
09  家珍
10  風涼し
11  弁じ難し
12  滋味無し
13  月在手
14  無南北
15  短法身
16  這漢
17  同事
18  桃核
19  足別離
20  癡僧
21  元不識
22  不遠
23  不諾
24  也風流
25  無所住
26  阿家牽
27  忘却
28  是非人1
29  是非人2
30  竹一竿
31 斑斑色
32 可憐
33 眞人
34 無慚色
35 不相知
36 三子寒
37 似秋月
38 思鱸客
39 明月夜
40 進一歩
41 千年翠
42 喫茶去
43 殺仏
44 如在
45 声吁吁
46 山高
47 不貪
48 養形
49 夜来雁
50 世上人
51 上樓
52 無暖気
53 嫌揀擇
54 罵李
55 怪力乱神
56 童子不知
57 到遼西
58 火自涼
59 不覚臭
60 無咎
61 為父隠
62 な し
63 な し
64 な し
65 な し


説教はイヤだ!体験がいい!坐禅を組む。

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道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp