『不 諾』(だくせず)


毎年、夏になると思いだす場面がある。高校に入った私は、
剣道の練習に明けくれて、一日二時間ぐらいの練習を、ほ
とんど一年中休むことなく続けていた。それは数百万人と
も云われる剣道人口のトップに立ちたいという、とんでも
ない野望があったからである。競技人口が多いだけに競争
も激しかった。高校の対抗試合でたまたま個人優勝したと
き、三位になった友人は、悔しさのあまり私の目の前で三
位の賞状をビリビリと破り捨てた。立場が逆だったら私も
そうしたと思う。火の玉のようになって燃えていた頃であ
る。
たしか高校一年の夏だったと思う。私の父は生来おとなし
く無口で、いわゆる寡黙の人である。ほとんど会話らしい
ものを交わしたことがない。食事の時もただ黙々と食べる
のみである。優しい言葉の一つも掛けてくれれば、どんな
ことでも頑張れるのに、と思ったことはたびたびであり、
この人に親としての愛情は有るのか、と考えたこともあっ
た。
汗まみれになって学校から帰ってきた、夕飯の時である。
「おい、お前は剣道で食っていく気か」
と、父がなんの前ぶれもなく聞いてきた。私はちょっと意
表を突かれたような気がしたが、
「剣道で食っていけるほど世の中、甘うなか」
と切り返した。父は、
「何になりたかとか」
と、聞いた。私は、
「家(農業)を継(つ)ぐ気はなか。会社にも勤めとうは
なか。父ちゃんと母ちゃんから金玉、二個も貰ったけん、
そいだけでよか。後は迷惑掛けんように生きて行くけん」
と云った。それに対して父は、
「お前の金玉が純金になるか、メッキになるか、俺の責任
じゃなかたい。決めるとは、お前自身たい」
と云い、また無言の食事を続けた。
『論語』に、
「父召唯而不諾」
(父召(め)せば唯(い)して諾(だく)せず」
という言葉がある。唯というのは速やかに恭(うやうや)
しく返事をすることであり、諾とは緩(ゆる)やかに答え
ることである。父が「おーい」と息子を呼べば「はーい」
となんの躊躇(ちゅうちょ)も、疑いもなく返事をするこ
とが唯である。私はその時の父との会話の中に、母親とは
違う慈しみを感じた。それまで、十六、七年間、無言だっ
た谷間を一気に埋め尽くし「おーい」と呼ばれ「はーい」
と、すっきり即答できた気分だった。
私にとってそれは、百万言の会話であった。その呼吸は言
葉以前であり、努力以前のことであり、知る人ぞ知る、人
間の原点である。

一筆法話

コピーしてお読み下さい。
01  君看よ
02  好事
03  独座
04  皆真なり
05  共に行く
06  好日
07  不食
08  蒼龍の窟
09  家珍
10  風涼し
11  弁じ難し
12  滋味無し
13  月在手
14  無南北
15  短法身
16  這漢
17  同事
18  桃核
19  足別離
20  癡僧
21  元不識
22  不遠
23  不諾
24  也風流
25  無所住
26  阿家牽
27  忘却
28  是非人1
29  是非人2
30  竹一竿
31 斑斑色
32 可憐
33 眞人
34 無慚色
35 不相知
36 三子寒
37 似秋月
38 思鱸客
39 明月夜
40 進一歩
41 千年翠
42 喫茶去
43 殺仏
44 如在
45 声吁吁
46 山高
47 不貪
48 養形
49 夜来雁
50 世上人
51 上樓
52 無暖気
53 嫌揀擇
54 罵李
55 怪力乱神
56 童子不知
57 到遼西
58 火自涼
59 不覚臭
60 無咎
61 為父隠
62 な し
63 な し
64 な し
65 な し


説教はイヤだ!体験がいい!坐禅を組む。

ホームページへ戻る

案内所へ戻る

道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp