岐阜弁の原始仏典

岐阜弁の原始仏典


   その昔お釈迦様は岐阜の片田舎に住んでいたというのが、現代の定説に
   なりつつある。これは道樹寺の潭渕(たんえん)和尚の独断と偏見であ
   る。しかし、これから述べるお釈迦さまについての記述は真実である。

   このようにわっちは聞きましたんや。ある時、世尊はラージャグリハの
   竹 林の中におられましたんや。
     
      その時、世尊は朝はやく衣を着け鉢を持ち、托鉢のためにラージャグリ
   ハの町に行かれましたんや。
     
      カッサパは、世尊が遠くから来るのを見て、近付いて礼をし、礼 儀正し
   い挨拶を交して後、世尊の傍に立ったのや。ほんで、カッサパは世尊に
   次のように申しあげましたんや。
      
   「尊いゴータマに、いささかお尋ねしたいことがごぜえます。も し世尊
   がお許しくだせえますなら、わっちの問いに答えて下せえ。」
      
   「カッサパよ。今は質問の時やねえ、すでに(托鉢の修行のために)町
   に入っとるやねえか。」
      
   やけど、カッサパはふたたび世尊に申しあげたんや。
      「尊いゴータマに、いささかお尋ねしたいことがごぜえます。もし世尊が
   お許しくだせえますなら、わっちの問いに答えて下せえ。」

      「カッサパよ。今は質問の時やねえ、すでに(托鉢の行のために)町に入っ
   とるやねえか。」
   やけど、カッサパは三たび同じ言葉を繰り返したんや。世尊も同じよう に
   退けたんや。
  
 すると、カッサパはこのように世尊に申しあげたんや。  「いや、ようけのことではあれへん。尊いゴータマにちょっとお尋ねしたい    と思うだけなんや。」      「カッサパよ。ほれなら、おめえさんが望むなら尋ねんさい。」  「ゴータマよ。苦は自作やろか。」  「カッサパよ。そうやねえ。」と、世尊は答えたんや。    「ゴータマよ。では、苦は他作でありましょうか。」  「カッサパよ。そうやねえ。」と、世尊は答えたんや。    「ゴータマよ。では、苦は自作であり、しかもいっぺんにまた他作で あり    ましょうか。」  「カッサパよ。そうやねえ。」と、世尊は答えたんや。    「ゴータマよ。では、苦は自作ではなく、他作でもなく、因なし に生じる    んやろか。」  「カッサパよ。そうやねえ。」と、世尊は答えたんや。    「ゴータマよ。では、苦はないのやろか。」  「カッサパよ。苦はないわけやねえ。カッサパよ。苦はあるんやて。」      「では、尊いゴータマは、苦を知らず、苦を見ないのでありましょうか。」      「カッサパよ。わっちは苦を知れへんのやねえ。見んのでもねえ。カッサパ     よ。わっちは、苦を知っとる。苦を見とるんやて。」  「そやけど、ゴータマよ。おめえさんは苦は自作であるかと問えば、そうや    ねえと答えたんや。また、苦は他作であろうかと問えば、そうではないとい    ったんや。では、苦は自作であり、しかも他作であろうかと問えば、そうで    もねえという。ではまた、自作でなくしかも他作でもなく、因なくして生じ    るんやろうかと問えば、そうでもねえという。また、苦はないのやろうかと    問えば、苦はないわけやねえ、苦はあるのだという。ほんなら、おめえさん    は苦を知らず見んのやろうかと問えば、いやカッサパよ、わっちは苦を知っ    とる、見てるんやという。では、大徳よ。おめえさんが、わっちに苦を示し    て下せえ。苦を説い て下せえ。」  「カッサパよ。なすものと受けるものとが同じであるという考え方は、さきほ    どおめえさんが苦は自作であるといった考え方と同じであるんやて。それは、    なんていったらええんか、常見のまちげえに落ちるんやて。カッサパよ。なす    ものと受けるものが別であるというのは、苦を受けてその重圧に負けたものが、    苦は他作であるいうのと同じで あるんやて。それは、なんていうたらええんか、    断見というまちげえに落ちるんやて。カッサパよ。わっちは、この二つの極端    を離れて法を説いているんやて。    ほんで、無明によって行(ぎょう)があるんやて。行によって識があるんやて。    識によって名色があるんやて。名色によって六処があるんやて。六処によって    触があるんやて。触によって愛があるんやて。愛によって取があるんやて。 取    によって有があるんやて。有によって生があるんやて。生によって老死・愁い・     悲しみ・苦しみ・憂い・悩みがあるんやて。このように、ぜーんぶの苦の集 ま    りが起こってくるんやて。    無明を余すところなく滅することによって行(ぎょう)は滅するんやて。 行を滅    することによって識を滅するんやて。識を滅することによって名色 を滅するんや    て。名色を滅することによって六処を滅するんやて。六処を滅することによって    触を滅するんやて。触を滅することによって愛を滅するんやて。愛を滅すること    によって取を滅するんやて。取を滅することによって有を滅 するんやて。有を滅    することによって生を滅するんやて。生を滅することによって老死・愁い・悲しみ    ・苦しみ・憂い・悩みを滅するんやて。このように、ぜーんぶの苦の集まりを滅し    てしまうことができるんやと、説い ておるんやて。一言で言わせてもらえればなも、    ほれ、よく世間で言うやないか、くさい臭いは元から断たなきゃだめ!って。あれ    とおんなじで、人間も臭いものにフタばかりしておると、未来永劫にフラフラと迷    い続けるもんなんや。    あ〜俺は、たわけやった。なんと大だわけの自分だったかと自分を見つめることから    始まるんや。最初に無明という言葉が出てきたやろ。難しいことは解らんでもエエが    要するに全ての苦しみは無明というたわけから始まるんや。」    世尊がこのように云わっしやった時、カッサパは次のように申しあげたんや。    「大徳よ。素晴らしい。たとえば、倒れた樹を起こすように、包み隠されたものを    広げるように、迷ったものに道を教えるように、 暗闇の中に燈火を持ってきて眼の    あるものは見やあというように、 世尊はさまざまの言い回しを使って真実を説いて    下さったんや。世尊よ。わっちは今ここに、おめえさんに帰依し、また法と比丘僧伽    とに帰依するんや。世尊よ。わっちはおめえさんの下で出家し、比丘の戒を受けたい    と思うんや。」   「カッサパよ。かつて仏教信者じゃなかった者で、この法と律とにおいて出家を望み、    比丘戒を受けようとする者は、4か月のあいだ一人で 住むという試練があるんや。ほ    んでなも、なおも比丘になりたいと思うんやったら、そこで初めて出家させ、比丘戒    を授けることになっとるんやて。やけど、わっちも人間の違いがわからんわけやねえの    やけど…」   「大徳よ。もしそういうことなんやったら、わっちはむしろ4年の間一人で住もうまい    か。4年の試練の後、出家して、比丘として戒を受けさせてもらうでなも。」  このようにしてカッサパは、世尊の下で出家することを許され、 比丘戒を授けられたの    やった。  尊者カッサパは、比丘戒を受けるとじきに、ひとりで、もくもくと修行に励んだんや。ま    もなく、出家の本懐である無上の境地を実証 し、       「わっちの迷いの生涯はすでに終わったんや。清浄な行はすでに仕上 がったんや。やら    なんことは、すでにやり終えたんや。この上は、二度と以前のような迷いの生涯に入る    ことはあらへん。」と知ったのやった。    このようにして、尊者カッサパは阿羅漢(あらかん)の一人に成りんさったのであるん    やて……。      雑阿含経 12,20   相応部経典 12,17
お釈迦さまを馬鹿にしたら罰があたるぞ!くわばら、くわばら次へ!

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道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp