人に合掌あり。

信仰があれば必ず行いがそれに伴います。


日常、神仏に捧げる合掌は眼には見えない大いなる命に対
する畏敬の現れであり、人間としての自然の姿であります。
合掌する姿を年寄り臭いと思っている人がありますが、こ
れは要するに大いなる命を感じない鈍な人の言うことです。

信仰と云っても何も特別なことはありません。明るく、正
しく、仲よく、生活を営みたいと望む人、日々に反省のあ
る人であれば必ず信仰を求め、折りに触れて手を合わせて
いける人です。その行がお念仏であったり、坐禅であった
り、山岳信仰であったりと自分に合った様々な形として表
れるでしょう。

自分の生命を尊重し、自分の暮らしを豊かにしたいと、本
当に願う人であれば、必ず他人の生命を尊重し、他人の暮
らしをも豊かにしたいと願うはずです。日々に反省し一生
を発展させたく、願う人ならば必ずや、自分を大いなる命
の光明の中に投じ、手を合わせて行ける人となります。こ
れは、自然の道理であり、知識以前の人間の本能のような
ものです。

毎日を怠りなく真剣に自分の生活と取り組んでゆく人は、
毎朝、夕礼拝と感謝の念を以て、大いなる命の象徴である
神仏の前にすすみ、心から手を合わせ、念仏申し、或いは
般若心経を唱え、或いは静かに瞑想するでしょう。

動物には合掌がありません。

手を合わせることは人間だけに出来る魂の表現です。

これは決して、神仏からお助けを頂き、お金をもうけたり、
病気を治したりすることを願うものではありません。自分
の生活を正しく、豊かにしたいという、願いが自然に表れ
た姿です。

手を合わせてゆくことによって、自分の信仰が増進され、
大いなる命の力によって生きがいができ、生きる悦びが湧
いてきます。おそらく、こころよく仕事にはげむ事ができ、
幸福感を味わうことが出来るでしょう。

最後に、大いなる命とは……、

今、ここに、生かされている不思議な私たち人間を含め、
何千、何万、何億、何兆という命を生み出してくれた母な
る命のことです。人はそれを表現出来ないから、神と呼び、
仏と呼び、天と呼んできたのです。大いなる命と私の命と
は同根です。ですから、お互いに手を合わせてゆけたなら
どんなにか美しいことでしょう。
(渕さんよりのお願い)


話はもうイイヤ!もう少し中をブラブラするか。

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道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp