ここは本堂の中心、

本尊さま

をお祀(まつ)りしてあるところを、
内陣(ないじん)と呼びます。

道樹寺の本尊さまは聖(しょう)観世音菩薩です。

禅宗ではよく観音さまや、お釈迦さま、薬師如来、などの仏さまが
本尊さまとしてお祀りしてあります。

それぞれのお寺の因縁により、本尊さまは違います。本来、偶像の
崇拝は仏教でいう真理の追及とは違いますが、人間は自分の目で確
かめにくい空に向かってはなかなか拝めないもので、真理の具現と
しての仏像を礼拝の対象にしたほうが一般に仏門に入りやすいとい
うこともあります。

道樹寺には本尊さまの他にも多くの仏像がお祀りしてあります。
ですから仏に帰依(きえ)するその一途な心が、見事な美しい仏像
や力強い仁王さまなどの数々を生み出してきました。それらの諸仏
や諸菩薩に具体的に会い、直接手を合わせ、拝める私たちは幸せだ
ともいえます。



仏教では完全に悟りに達した方を如来(にょらい)と呼びます。未
だ完全な悟りに達せずに、わざわざ生きとし生けるものの相手をし
ようと決意して、この世でさまざまな救済の方法を展開される方を
菩薩(ぼさつ)と呼びます。阿弥陀さんやお釈迦さんは如来です。
お地蔵さんや観音さんは菩薩です。まあ、どちらでもいいような気
がしますね。

私たち人間も、人のために何か役に立つことがあるのだろうか?と
自分だけでなく人のためにも心を悩ませ、実際に行動を起こしたい
ものです。まずは、小さな身の回りのことから始めることが菩薩道
の実践にほかなりません。

キリスト教と仏教の決定的な違いは、キリスト教では神の御心のま
まに信じて従っていくだけで、決して人間が神になることはありえ
ません。しかし、仏教ではお釈迦さまの教えに従っていけば、いつ
か自分も仏さまと同じ境地になるということです。キリスト教が悪
いということではありません。全てを神に任せて生きるということ
は、結果的に同じ方向に向かうからです。

そういう議論は仏教でも自力、他力のことなどいろいろあります。
しかし、阿弥陀さまに何もかも救いとられるということに気が付く
には自分自身の情けなさに気が付かねばなりません。はっと気が付
いて、
「こんなにどうにもならん、自分でも救われている」
というところまでは自分で苦しまねばならない。のほほんとタバコ
でも吹かして「煩悩のかたまりの私です」というような問題ではな
い。また、禅宗のように自力、自力といいながら結局はぎりぎりの
ところまで自分を追い込んで、あとはままよとジャンプしてお任せ
するしかない。みんな同じ穴のムジナだと思いませんか。

もともと人間も如来も同じ心を持っていて、それが磨かれていない
だけのことであって、本来、平等にどのような人も具えているとい
うのが仏教の立場です。

だから、仏さまに手を合わせる時には将来の自分の姿があちらに在
ると思い、それに比べて「今の自分はどうか?」とチェックするよ
うな気持ちでお参りすれば間違いないと思いますよ。

わずかな賽銭を投げ入れて、あれやこれやと願いごとを頼むのは厚
かましいですぞ。


なにかお経の話でも?

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道樹寺 江口 潭渕(たんえん) dojuzi@ktroad.ne.jp